1.日本アイアール社のルーツは1966年設立の「出版社」
日本アイアール社初代社長になる伊藤さんが個人の趣味で設立した資本金30万円の出版社が日本アイアールのルーツである。広島で被爆した子供の手記、「僕は生きたかった」や「日本貧乏物語」といった良書を出版していた。偶然にも1966年は、発明くんが(株)リコーヘ入社した年である。
◆発明くんの「高度経済成長期」での良き時代を体験(PDF 3P)は、こちらから

2.1972年 発明くんが、特許業界へ足を踏み入れる
発明くんが特許業界でお世話になったのが1972年である。1971年は、財団法人日本特許情報センターが設立された年である。我々業界人は「JAPATIC」と呼んでいた。特に「JAPATIC公開抄録」は、多くの企業が購入していたと記憶している。
◆特許業界へ足を踏み入れる(PDF 3P)は、こちらから

3.1974年10月、日本アイアール株式会社を設立(資本金120万円)
株式会社リコー「情報機材部」の販売代理店として、「特許公報のマイクロフィルム」「マイクロフィルムリ-ダ機器」「公開特許抄録」の販売を開始する。この1974年10月が当社の創立記念日となる。
◆自分の営業ノルマを日本アイアールへ押し付ける(ODF 1P)は、こちらから

4.1975年、特許公報の複写サービス開始する
「情報機材部」の販売代理店になった迄は良かった。しかし、日本アイアールの経営は厳しかった。「情報機材部」の商品だけでは思うように売上げが伸びない。日本アイアールを存続させるには当面、食べていけるネタを探さなくてはならない。
◆特許公報の複写サービスで、何とか食いつなぐ(PDF 1P)は、こちらから

5.1978年、「JAPATIC」 特許検索システムを開発
財団法人日本特許情報センター(JAPATIC)は、日本特許庁から特許情報の提供を受け、日本で最初の特許オンライン検索システム(PATOLIS)を開発し、サービス提供を開始する。当社の資本金は240万円から480万円へ増資されている。
◆「リコー情報機材部」の特許データから派生した商品(PDF 1P)は、こちらから

6.1979年、日本アイアール特許公報複写センターの増設を完了
特許公報の複写サービスをしていたが、増え続ける特許公報の保管スペースを確保するため、拡大をしてきた。その増設工事が完了した。
◆日本アイアール社特許公報複写センターの設立(PDF 1P)は、こちらから

7.1980年、発明くん日本アイアールへ転出
「リコー情報機材部」の特許情報サ-ビス事業、財団法人JAPIO(日本特許情報機構)と業務提携する案が持ち上がった。特許情報に関する商品サービスの開発と制作はJAPIOが行い、「リコー情報機材部」は、ただ売るだけに徹しようというわけである。つまり特許データの蓄積を一本化させ、強化しようというのが狙いであった。早い話が「情報機材部」のリストラである。いよいよ「情報機材部」も風前の灯火か。
◆苦し紛れで、自分が作った会社へ転出する(PDF P1)は、こちらから

8.1982年、特許公報の翌日配達を開始。特許業界初の宅配便
他社が嫌っている部分を当社がやることで生き残りの方策が見えてくる。足を運ばないで、出来れば郵送や宅配で済ませていたいのが本心である。いちいち届けていたのでは手間がかかり儲からない。当社は他社が敬遠する部分を、先ずやってみることにした。このビジネスモデルは東京都心部の特許部門(*)に受け入れられた。
(*)「特許部」から「知的財産部」へ部署名の変更をする会社は、まだ少なかった。
◆関連資料:社会の変化は避けられない。社史から見る「特許業界史」

9.1983年、特許出願管理ソフト「MASYS-PA」を発売
当時は汎用コンピュ-タを使って大きなシステムで運営している特許部もあったが、超大手企業に限られていた。それを、NECの「PC-8801」という8ビットパソコンで、開発した。
◆「初めての新商品、特許出願管理ソフト「MASYS―PA」(PDF 1P)は、こちらから

10.1985年、一般財団法人日本特許情報機構(JAPIO)が誕生
特許情報事業を一元化すべきとの日本特許庁指導により、日本特許情報センター(JAPATIC)と社団法人発明協会(JIIII)の特許情報サービス部門が統合される。その後JAPIOは、2001年にPATOLISを株式会社パトリスヘ営業譲渡することになった。
▽JAPIO 30年の歩みは、→https://www.japio.or.jp/profile/profile01_01.html

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