第1章 知財 50 年、発明くんの知財年表(社史)

―日本アイアールって、どんな会社―

  商売によっては、いくら説明しても分って貰えない商売がある。社員達も親戚や友達から「お前さんのところ、いったい何をしている会社だ?」と聞かれて返答に困っているようだ。特許関係の仕事です、というと、では特許って何だ、という話になる。一般の人には、特許というのは非常に縁遠いものである。やや事情通になると「特許事務所ですか」と聞いてくる。「いや、うちは特許のことをいろいろと調べる会社です」と応えると余計に分らなくなる。日本アイアールの「IR」は、Information Retrieval であり、Investors Relations ではない。

1. 日本アイアール社のルーツは 1966 年設立の「出版社」

  伊藤春樹さんが個人の趣味で設立した資本金 30 万円の出版社が日本アイアールのルーツである。原爆に被爆した子供の手記、「僕は生きたかった」や「日本貧乏物語」といった良書を出版していた。

2. 1974年 10月、日本アイアール株式会社を設立(資本金 120万円)

  株式会社リコー「情報機材部」の販売代理店として、「特許公報のマイクロフィルム」「マイクロフィルムリ-ダ機器」「公開特許抄録」の販売を開始する。この 1974 年 10 月が当社の創立記念日となる。

3. 1978年、JAPATIC 特許検索システムを開発

  財団法人日本特許情報センター(JAPATIC)は、日本特許庁から特許情報の提供を受け、日本で最初の特許オンライン検索システム(PATOLIS)を開発し、サービス提供を開始する。当社の資本金は240万円から480万円へ増資されている。

4. 1979年、特許公報複写センターの増設を完了

  特許公報の複写サービスをしていたが、増え続ける特許公報の保管スペースを確保するため、拡大をしてきた。その増設工事が完了した。

5. 1982年、特許公報の翌日配達を開始。特許業界初の宅配便

  他社が嫌っている部分を当社がやることで生き残りの方策が見えてくる。足を運ばないで、出来れば郵送や宅配で済ませていたいのが本心である。いちいち届けていたのでは手間がかかり儲からない。当社は他社が敬遠する部分を、先ずやってみることにした。このビジネスモデルは東京都心部の特許部門(*)に受け入れられた。
(*)「特許部」から「知的財産部」へ部署名の変更をする会社は、まだ少なかった。

6. 1983年、特許出願管理ソフト「MASYS-PA」を発売

  当時は汎用コンピュ-タを使って大きなシステムで運営している特許部もあったが、超大手企業に限られていた。それを、NECの「PC-8801」という8ビットパソコンで、開発した。

7. 1985年、一般財団法人日本特許情報機構(JAPIO)が誕生

  特許情報事業を一元化すべきとの日本特許庁指導により、日本特許情報センター(JAPATIC)と社団法人発明協会(JIIII)の特許情報サービス部門が統合される。
(*)2001 年、JAPIO は PATOLIS を、株式会社パトリスヘ営業譲渡した。

JAPIO 30年の歩みは、↓
https://www.japio.or.jp/profile/profile01_01.html

8.1986 年、発明くんが代表取締役社長に就任

  この間、資本金は800万円、1200万円へ増資される。赤字体質からのスタートである。42歳の男の厄年に発明くんは社長になった。もうこれ以上は悪いことは無いのであろう、「身のほど」を知って粘り強くやっていこう、と決めた。

9. 1986年、特許資料センターから「特許速報版」事業を引き継ぐ

  「特許・実用新案総合索引年間版(年一度の発行)」は日本特許情報センターへ、「特許・実用新案総合索引速報版(半月一度の発行)」は、特許資料センターからの発行と棲み分けられていた。この年、特許資料センターの創業者の引退により当社が、その業務を引き継いだ。

10. 1988年、特許教育用ビデオ「特許とは、なんだろう」を作成

  新入社員の特許教育入門編としてアニメ入りで作成する。当社のキラクター「発明くん」の誕生であったが、“特許を漫画でビデオ化するとは甚だケシカラン”と、随分とお叱りを頂いた。アニメで特許教育が出来る程、特許は易しくはないということである。しかし、新入社員や女性社員に「発明くん」は評判が良かった。

11. 1990年、当社内に「知的財産活用研究所」を設立

  特許は技術防衛の手段ではなく、会社の利益を生む知的財産であるという考えが起点であった。これまで会社の特許部は権利を取る、守るための人材を育成してきたが、これからは情報に知恵をつけ「知」を生み出すことができる創造力のある人材教育が必要である。このような課題を研究テーマに選び、研究成果のレポート発表、ツールの開発、さらには研修セミナーの開催をもって、お客様との情報交換を目的とする「知的財産活用研究所」を発足させた。機関誌「知的財産」を年2回発行した。

12. 1990年、「MC法」を実践するソフト「メモダス」の開発に着手

  創造技法「MC法」の考案者である長谷川公彦氏が知的財産活用研究所の名誉研究員として参加する。「MC法」とは、図解による創造技法(知的生産技術)の一つで「3×3方式」のマトリックスカードを使うフラクタル思考での創造技法である。これまでに「KJ法、マッピング法、MN法、曼荼羅法」とたくさんの創造技法が紹介されているが、パソコン利用でのソフト化は実現しておらず画期的な商品開発の挑戦であった。

13. 1993年、特許専用の翻訳ソフト「PAT-Transer」の販売

  株式会社クロスランゲージの販売代理店となり、特許専用翻訳ソフト「PAT-Transer PC-9801 版」の販売を開始する。特許専門の機械翻訳ソフトは、これまで存在せず「PAT-Transer」が業界の先駆けとなっている。

14. 1993年、日本特許庁、特許公報を CD-ROM 版で発行

  特許庁は、1993 年(平成5年)1 月の特許・実用新案公開公報の CD-ROM 化をはじめとして、従来の紙公報から順次、特許公報の電子化を進めた。

15. 1994年、創立 20 周年「身のほど経営のすすめ」を出版

  本書は、発明くんの経営経験を中心にして中小企業の生き残り策を探ったものである。どこまで普遍性があるものなのか心もとない。小さな会社だからこそ、できることがあるのではないか。社員が幸せに生きられて会社も無理をせずに“身のほど”を知って成長すれば、少なくとも個人をないがしろにすることはないだろう。

16. 1995年、ダイヤモンド社主催「中国特許事情視察団」へ参加

  弁理士 黒瀬雅志氏を団長に総勢15名の視察団であった。この視察団の現地通訳として、お世話になったのが張峻峰氏である。氏は現在、中国北京アイアールの総経理として活躍している。この視察団の訪問先は北京、上海、深セン、香港で、北京では中国国家専利局、北京中等裁判所、商工行政管理局、国際貿易促進委員会特許事務所を敬意訪問した。深センのホテルで地下鉄サリン事件を知る。

17. 1996年、当社の主催で中国特許ツアーを催行

  参加者は総勢 20 名で訪問地は中国国家専利局、精華大学、国際貿易促進委員会特許事務所、柳沈渉外専利事務所を敬意訪問する。またタウンウオッチング(技術流通市場、模倣品市場、を見学する)と観光を兼ねたツアーは大好評であった。ガイド通訳は当社の秦辛華氏と張峻峰氏が勤めた。また当社主催の「台湾特許事情視察団」を結成して「竹園テクノセンタ-」等を訪問する。台湾からは「日本特許事情視察団」が来日し、そのお世話する。

18. 1996年、欧州共同体商標庁(アリカンテ市)ヘ訪問

  1996 年 4 月から、ひとつの登録により共同体(この時点では 15 カ国)全域に同一の効力を有する商標権が獲得でき、日本人も共同体商標制度を利用して商標権を獲得することができる、ということで取材訪問をした。併せてスペイン最大の特許事務所、エル、ザブル事務所(マドリッド市&アリカンテ市)も訪問する。

19. 1997年、「筋の良い研究テ-マの発掘」「メモログ-ac」を完成

  本ソフトの開発者は(故)久里谷美雄氏である。氏は日本企業、米国企業の両方に籍を置いて研究開発をしてきた。日本とアメリカの違いに視点をおいて物マネでない、日本の特長を活かした研究開発をするためには日本人技術者は今後どうしたら良いのか、彼らを助ける手立てはないのか、そのような観点から本ソフトが開発された。本ソフトの基本コンセプトは、構造化した情報(個人の創造力)をチームで共有すること、その情報は絶えず再構造化され進化していくこと、そして、それらの情報は先輩達の創造力として次世代へ伝承されること、の3点である。日本企業のR&D部門は「R」を重要視する社内文化がない、「調査研究」を軽視する社内文化の危うさに対して警鐘を鳴らし続けていた。

20. 1999年、特許庁が特許電子図書館(IPDL)を開始する

  特許電子図書館(IPDL)は、インターネットを通じて、「無料で」「何時でも」「誰でも」産業財産権情報を検索・閲覧できるツールとして、平成 11 年(1999 年)3 月 31 日に特許庁によってサービスが開始された。

(*)2004 年には、IPDL の運営が独立行政法人工業所有権情報研修館(INPIT)に移管された。2015年に特許情報プラットフォーム(J-Plat Pat)のサービスがリリースされ、IPDL は、その役割を終えた。

21. 1999年、中国北京アイアール(HLE 社)が設立される

  この時期には当社の資本金は 2000 万円になっている。中国への特許・商標出願、中国特許・商標調査、中国特許公報の翻訳、技術文献、商品取り扱いマニュアル、契約書類等の翻訳、模倣品の調査と対策、を業とする現地化法人である。HLE社(中国北京アイアール)の総経理、張俊峰氏は1996年から日本アイアールの社員として日本の特許事情を学び、日本の商慣習をも身につけて帰国し、起業した。

22. 2001年、NRIサイバーパテント株式会社の特約販売店となる

  1993 年から特許公報が電子化された。これによって当社のビジネスモデルは一気に崩壊する。これまで当社の経営資源は印刷で発行されていた紙公報であった。紙公報の発行量は膨大で扱い難い資源であるからこそ、当社のビジネスモデルが成立していた。しかし当社の経営資源は、紙公報から電子公報へ変わった。当社では経営来るべきインターネット社会に対応するシステムを作れる人もいなければ、金もない。社内ベンチヤ-を起業したNRIサイバーパテントの若い経営者の潜在能力に賭けて、新しい夢を共に追うことにした。

23. 2002年、米国特許明細書の検証を開始する

  “日本企業から米国へ出願された米国特許明細書が意味不明でサッパリ理解できない、” と言う篠原泰正氏(知的財産活用研究所最高顧問)の提言により米国特許明細書の精査検証を始めた。氏は英語文章を早く正確に読む「3×3方式」の篠原メソッドを考案した。さらにボランティアで「SLE塾」を主宰し、論理的文章の書き方を教えている。「英文特許明細書の改善マニュアル」等の著作物は多い。この時のスローガンは、「世界で通用する、戦える強い特許明細書を作ろう」であった

24. 2004年、「パソコンで学ぶ中国語」のテスト販売を開始

  早稲田大学教授 楊達氏の研究成果を商品化するための市場調査とテスト販売を開始した。65 時間で中国語検定 3~4 級合格を可能とした画期的なCD-ROM商品である。

25. 2005年、知財ブログ「あいあ~る村塾」を開設

  ブログのコンセプトは、知財経営と働き方改革/知財改革/日本語を考える/「平明日本語」の啓蒙活動/このままで良いのか日本特許明細書/世界と日本のはざま/文明と文化のはざま/中国・米国関連/福島原発事故から学ぶ/環境・エネルギー・資源・農業問題等。
https://nihonir.exblog.jp/

26. 2007年、中国知的財産サービスセンターが設立される

  中国への特許出願明細書の惨憺たる状況は、日本国の損失である。中国弁理士 王先生が、自らが発明者と打ち合わせしながら中国で通用する中国特許明細書をつくる新しいビジネスモデルを展開。
http://www.cn-wang.jp/

27. 2008年、「知的財産活用研究所」に知財研修センターを設置

  いくら知識を詰め込んだところで、実務で役立たねばその知識は無駄となる。「知的財産研修センター」は自分の頭で考え自ら正しい行動が取れる「知財人材」を育成するために設設置した。

志が決まれば次は行動である、人が何をしてくれるかではなく、自分が何をするかだ、いま自分が居る場所、立場で何ができるのか、それを考えて実行に移せば新しい自分が生まれる(吉田松陰)

28. 2014年、発明くんは、日本アイアール社の社長を退任する

  発明くんは、「知的財産活用研究所」の活動に専念することになった。「知的財産活用研究所」のレポート類は、これまで日本アイアール社のホームページから発信されていた。これを機に IPMA(*)のホームページを新たに立ち上げ、IPMA から情報発信することにした。資本金は3100万円となっていた。


発明くんイラスト