知的財産が重視された背景は、
日本や発展途上国への対抗手段であった

1980年代、アメリカの製造業は国際競争力が低下し、自動車、鉄鋼、半導体などの基幹産業でさえも、 日本やアジア諸国にその地位を脅かされるようになった。当時のレーガン政権は、生産力の衰えは技術力の低下につながり、 国力にも影響するという危機感をもち、知的財産権の保護を強化することで対抗しようとした。 ハイテク製品の大半はもともとアメリカで開発されたものだ。特許を買うことでその技術を手に入れマスターした日本は生産技術と品質管理を確立させ、 本家を凌ぐ技術力を身につけた。アメリカが巻き返すには保有する基本特許の価値を高め、それを防衛することが必要だ。 知的財産権は、こうしてアメリカの通商政策の強力な武器として重要視されるようになった。

原文引用:ダイヤモンド社 「知的財産権早わかり」


1.特許の適用範囲は社会の変化と共に拡がっていく

変化にも劇的に変化するものと緩やかに変化するものがあるが、技術の世界では急激な変化が起こることは当たり前である。

知的財産権法の起源には「販売可能な新製品に限る実態のあるもの」と定義されていた。

その後、ワットが蒸気機関車を発明することによって、初めて「方法」が特許として認められるようになり、発明王エジソンにつながってきたといわれている。

その後、原油を消化するバクテリアの新種発明等が生まれた。この発明がバイオ特許、遺伝子特許、などへと進化させてきた。

その後は、コンピュータの出現とIT技術の進歩である。ソフト特許、 ネットワーク・コンピューティングシステム特許、ビジネスモデル特許、IoT特許へと、この分野の進化は凄まじい。いずれも日本が遅れをとっている技術分野である。

図2


2.アメリカの、プロパテント政策がキッカケとなった

知的財産制度に関する国際的潮流は、知的財産権の保護強化である。そのきっかけとなったのは、1980年代に入ってからの米国によるプロパテント政策である。

かねてから自国の産業競争力の低下に対して危機感を抱いていた米国は、「ヤングレポート」が公表された1985年を機に、国内産業の競争力強化の観点から、知的財産保護の範囲拡大や権利保護の強化、さらには通商政策への反映など、特許権などの知的財産権の保護強化を図るための施策を次々に打ち出したのである。

米国が1986年に、知的財産権をGATT(関税と貿易に関する一般協定)の ウルグアイ・ラウンドの交渉の場に持ち込んだのは、このプロ・パテント政策の一環である。

1985年、アメリカのプロパテント政策(特許重視)は、日本の特許制度を変えるまで影響を与えた。 このプロパテント政策は、知的財産の適用範囲を広げることへ繋がり知財係争を増やす要因にもなっている。アメリカにおける知財係争に掛かる費用は膨大であり、損害賠償額も桁外れである。(原文引用:ダイヤモンド社 「知的財産権早分かり」)

図3


3.先進技術の導入から始まった日本の「物つくり」

1980年代、日本やアジアはアメリカの知的財産権を導入し、その技術力を手に入れて応用し、いつしかアメリカを凌ぐ技術力を身につけるまで発展した。 アメリカは市場を次々と明け渡すことになり、生産力が衰えると同時に物つくり技術が低下してしまった。これはアメリカにとって誤算であった。

当時のアメリカは、日本やドイツに色々な工業品の貿易で負けており、次々にアメリカ市場を日本やドイツに明け渡しているということで、 アメリカはこれからどうしたらよいかという議論を徹底的に行った。

ヤングレポートの一番のポイントは、研究開発をしっかりやって、そこから出てきた成果を、 物やサービスに匹敵する財産として位置付けをするということであった。

マサチューセッツ工科大学が世に問うた「メイドインアメリカ」という報告書も出されたが、 この提案は「国策」として採用されなかった。つまり「物つくり」で、もう一度、世界の頂点を目指すという方針は葬り去られたことになる。

図4


4.ビジネスモデル特許が、知財革命を誘引した

ソフトウエア関連特許とは、1970年代の電卓に端緒がある。コンピュータに関する基礎技術、通信基盤に関する技術もこの範中に入る。1980年代に入ると、電気釜やNC施盤などに代表されるハード自体をコントロールするマイコン制御技術時代に入る。1980年から90年にかけてはソフトの独自の機能をハードに組み込んだ商品が出てくるようになった。ワープロ機がその代表である。

その後パソコンをハード資源として有効に利用する為のソフトがどんどん開発されてきた。 それらソフトウエアは電子媒体に格納され、それぞれが商品として完成されてきた。

ここまでが、従来のソフトウエア関連特許である。この延長線上で、媒体に格納されないソフトウエアによる課題の解決を新たに 「発明」として扱うと共に、いわゆるビジネスモデルに固有の特許性の判断基準を明確化したのが「ビジネスモデル特許審査基準」である。

ネットワーク・コンピューティング技術の出現によって、ビジネスの基本である「物、人、金、情報」 のシフト(移動)が生じました。つまり仕事のやり方や仕組みが大きく変わり、従来のスキルや経験、そしてシステムが突然陳腐化してきた。

図5


5.日本経済を支えた「黎明・成長期」は終焉した

コンピュータの出現によって、ビジネスの基本である「物、人、金、情報」の移動が起き、仕事のやり方や様々な仕組み(物つくり、流通など)が大きく変わった。

特許制度もコンピュータの発展、IT技術の進化とともに、その適用範囲も拡大され最も変化を来たす分野といえます。

人工知能(AI)の進化で、従来のスキルや経験、そしてシステムが突然陳腐化することが起こる。

その典型が、インターネットによるものつくり(Internet of things)というコンセプトが生まれた。

また、Industry 4.0(第4次産業革命)とかIndusutrial Internetとも呼称しているが、これらは御互いに供する存在でなく補完する関係である。

この分野の技術(特許)動向は目を離せない。日本が得意とする、これまでの”物つくり”の仕組みが変わる。

図6


6.第4次産業革命へ繋がった新型の知的財産

ソフトウエア関連特許:
コンピュータに関する基礎技術、通信基盤に関する技術など。馴染み深いものに工作機械やプラントなどの制御ソフトなどがある。金融関係における電子マネー、電子決済といったビジネスシステムの構築やインフラ整備に発生するソフトウエア類が該当する。

ビジネスモデル関連特許:
ビジネス手法を応用したシステムで、実態はソフトウエアのアルゴリズムでもソフトウエアとハードウエアとが一体化すれば具体的な応用(アプリケーション)システムとして機能するものであれば特許になるといわれている。ビジネス方法のアイデアが中心で、非技術的なものの取扱いが、今後どのように変わっていくのかの監視が大事である。

ネットワークコンピュ-ティング関連特許:
第三次産業革命は、コンシューマーインターネット(Consumer Internet)の大発展時代であった。 推進したのがアマゾン、アップル、グーグル、フエイスブック、マイクロソフト社など、米国を代表とするIT企業である。この時代を第3次産業革命と位置づけ、それは何十億 という世界中の人々を繋ぐというコンセプトであった。

GE社を初めとする米国の巨大製造業は、コンシューマーインターネットの大発展を横目で見ながら、伝統的製造業では未来がないと考えた。そこで、「物のネットワーク」で、製造世界を変えねばならないとい危機感を持つに至った。

これが、インダストリアルインターネット(Industrial Internet)である。それは世界中の何百億という物(部品、コンポーネントツール、設備)を繋ぐというコンセプトである。インダストリアルインターネットの狙いは、ビッグデータの解析、機械の自学習、自社製品の状態監視(故障予知)、遠隔の保守技術、ユーザインターフエースの改善と 標準化などである。

(補足):インダストリアルインターネットの考えは、
ドイツ政府の産業政策である「Industrial Revolution 4.0」からヒントを得たと言われている。 「インダストリアルインターネット」と「インダストリアル 4.0」は、互いに供する存在でなく 補完するものである。互いの共通領域を共有して、それぞれの独自領域を「進化・融 合」させていくシステム作りである。これが「Internet of Things」すなわち「IoT」である。 それらの複合技術を進化(深化)させることで、製造業の物つくり方式、あるいは技術 が、これまでと異なり激変する。これが第4次産業革命である。

図6