PART-3 日米の差ドライビングフォースとニーズ

1.米国のチャレンジ精神と独創性が生まれる背景

こういった歴史的な差が日米の間にあるのは確かだ。だがそれにしても、もし直ぐにでもレイオフされるという緊張感、恐怖心が日本にも何時もあったなら、日本人だって地道に収率を高めるなどという努力をしただろうか。

レイオフされて仕事を見つけるときに“私はかくかくしかじかの製品の収率を高くするのに貢献をした、というよりも私は この製品を初めて作った人間だ”、と言った方が、受けが良いに決まっている。

見た目にハデな実績が必要なのである。地道に収率を改善したって、それで社内的にその功績が認められたって、それは外に売れるキャリアにはならない。

だから一つの仕事があるところまで完成したら、長いこと時間をかけてそれをパーフェクトに持っていくことをしないで、次の、やったら目立つキャリアになる仕事に移っていく。 日本人はこれを挑戦と言う。

私はアメリカのチャレンジ精神の、独創性の背景にはいつも レイオフされるか分からないという緊張感が横たわっているからだと思う。つまり、独創性の裏側にあるのは忠誠心とリストラの背中合わせ、だと思っている。

日本がもし、もっと独創性に富んだ人間が必要だと思ったら終身雇用制をやめるのが一番の近道だ。しかし、そんなことをすれば従業員の企業に対する忠誠心がなくなってしまう。 それが証拠に、いまの私にはB社に対する忠誠心などない。T社にいた時はそうでなかった。違った。

いつでもレイオフができる社会になったら従業員の企業に対する忠誠心がなくなる。従業員を信頼できなくなると、企業として従業員に必要な情報を十分に与えることができなくなる。みんなが必要な情報を共有してこそ良いアイデアが生まれるし、チームワークも生まれる。これがなくなったら企業の研究開発にとって大きな痛手である。日本は、個人のスタンドプレー的な独創性よりも、皆で情報を共有して安心して仕事ができる国であり続けて欲しいと思う。しかし、この思いは届かないだろう。

2.優秀でハングリーな人材が集まる米国の強み

このアメリカの、レイオフされるかもしれないという緊張感は、人種間の緊張によって加速されている。アメリカでは人種差別をしてはならない事になっているし、人種差別はない事になっている。しかし、そんなことは無いことは今さら言うまでもない。 少なくとも心の中で、差別感を持ってはいけないと知りつつ、ついつい差別的感情を抱いてしまっている自分を恥じている良心的な白人系のアメリカ人が非常に多いと思う。

こういった感情は裏を返せば、白人系のアメリカ人が黒人、アジア系アメリカ人に対して強いプライドを持っている事につながる。だから、ただプライドだけでなく実力でも決して負ける事のないように、白人系のアメリカ人は努力する。そしてまた、白人系以外のアメリカ人も少なくともかなりの部分の人たちは、諦めることなく負けるものかと努力する。

一方、世界には様々な問題を抱えた国が沢山ある。それらの国々から、特に優秀な人たちが争ってこの広いアメリカにやって来る。

とある研究所で研究者を1人募集した。その会社は、いまや会社ごと身売りをするかもしれないし、研究所を閉鎖するかもしれないという事で、新聞紙上などで大変評判の悪い会社である。それにも拘わらず、応募者が30人以上もあったそうだ。そのうちの約70%が、中国人、韓国人、インド人の今年博士課程を終了する粒よりの人ばかりだ。

とにかく働き口を見つけてビザを取得しないとアメリカには住めないか ら、とりあえず働き口でも欲しい人が沢山いる。こういった、優秀でハングリーな人材がアメリカにはどんどん流れ込んでくる。白人系アメリカ人が危機感にかられて、プライドにかけて努力しない訳がない。

3.米国に有って、日本に無いドライビングフォース

アメリカの企業に勤めてみて、そしてアメリカという国にほんの暫くだが住んでみて、この国にはハングリーさとは別のいくつかの、人々を努力させないではおかないドライビングフォースが働いているように、改めて思う。

既に述べた通り、ひとつは広い意味で人種間の緊張であり、もう一つはいつ職を失うかわからないという緊張である。

私が住むエリコットシティでは、中国人、韓国人の数がこの数年間で急激に増えた。それで何が起こったかというと、彼らが多く住む地域にある小、中、高校 のレベルが一躍して全米のトップクラスに踊り出た。中国、韓国系のアメリカ人たちは教育熱心だ。そして、それと同時に白人系アメリカ人のプライドが学校のレベルを急激に押し上げたに違いない。

日本でも最近は発展途上国からの人の姿を多くみるようになった。国籍、その他の制度を変えていけばこれらの人たちの割合がどんどん増える可能性はある。その可能性を全否定はしないが、日本の場合、言葉もまるで違うし、物理的に国土も狭く海で他国と隔離されている。人種間の緊張みたいなものがこれから先日本で起きる可能性は少ないと思う。日本にはない、こんな緊張感がアメリカにはいつもある。これよりもずっと弱い緊張は、かつての日本に有った時期もあるが、それは学歴間の緊張でしか過ぎない。

4.米国の広さを、日本が真似ることはできない

この先日本は勝ち続けられるだろうか。私は、このままでは到底無理だと 思う。そのとき最も手強い相手はいったいどこだろう。やっぱりそれはアメリカだ。こうやって小さい日本の狭い我が家に戻ってみると、日本とアメリカの差は突き詰めるとやはり、狭さと広さの差に行き着いてしまうように思う。

私が住んでいた辺りで庶民にとって普通の家とは、車2台分のガレージがあって、2階に広い物置部屋つきのベッドルームが4つとバスルームが2つ、1階に居間と応接間と台所と食堂が2つとトイレがある。その上、自分たちで勝手に用途を決めて使える広い地下室がある。花壇のある広々とした芝生の庭がある。こんなところが普通の家だろうか。(中略) 空間があるから、そこを埋めるのに不要な物を沢山買わなければならない。そのいずれもが、日本では考えられないほど安く手に入る。

(中略)交通渋滞がなく、また静かで自然がいっぱいの場所がたくさんある。だから、つい出かけてみる気になる。それどころか月曜日に会社に出ると挨拶は、週末をどんなふうに過ごしたかを相手に聞くことだ。どこかに出かけなくてはみっともなくて会社にも行けない。(中略)遊びに時間が、かかるから、食事の支度には時間をかけない。だからスーパーにはインスタントな食品や調味料がこれでもか、と並んでいる。いろんな国の人がいるからそれも種類の多さに拍車をかける。店がでかくて広いから、物はいくらでも置けるし、店全体が倉庫のようなものだ。こんなものを誰が買うのかと不思議に思うものまで売っている。

こんな風に、身近なところでちょっと見ても、日本よりもよほど多くのニーズがある。 新製品のチャンスが多い。小さい時から身近にあるニーズに触れていれば創造力も自然と身につくのは当たり前だ。広い、ということはいいことだ。 だがアメリカの広さを羨ましがっても、そしてそれをそのまま狭い日本が真似ようとしても、これは物理的に不可能だ。無理なことに拘っても得ることは少ない。

狭い日本をアメリカが真似ようと思ってもこれも無理だ。広い国では必要でも狭い国には必要のないものが沢山ある。だが狭い国に必要で広い国に不要なものはほとんどない。そして、狭い国では小型で精密で使いやすくて品質の良いものができる。大きな国は大雑把で構わない。遠くで見るからあらが目立たない。だから日本で作ったものはアメリカでは、売れる。反対にアメリカで作ったものは、日本では、まず売れない。

5.米国は、広い国のデメリットを克服する技術を得た

アメリカの広さを日本が真似ることはできない。日本の狭さをアメリカが真似ようとしてもこれまでは真似ることはできなかった。だが、あらゆる分野で最も大切な情報の共有という観点からは、これまでは真似ができなかった日本の狭さを、アメリカは今、明らかに手に入れつつある。それはテレコミュニケーション技術の発達によってもたらされつつある。

この技術の使いようによっては、狭い日本にもまして、コミュニケーショ ンが格段と向上する。 アメリカは国土が広い。だから全土に渡ってのコミュニケーションには、狭い日本に比べてどうしても不利だった。それに人種の多様さが輪をかける。だが今、テレコミュニ ケーション技術の発達で、広いアメリカに散らばっていた大小の都市、文化圏が今や蜜に、一つに結ばれつつある。

国土の広大さに基づくデメリットがあっという間にデメ リットでなくなりつつある。どうしても日本に比べてハンデがあった、そして科学技術の発展には欠かせない情報の集中と共有が、これまでよりも格段に広い範囲で緊密に達成されつつある。

これまでは情報が十分に共有され、活用されるためには人と人とのウェットな接触が不可欠だった。そのためには均質で密度の高い人の集中が最も重要なファクター だったように思う。

日本は今までそれが、まるで空気であるかのように日本のメリット、つまり人と人との「ウェット」な接触を通じての情報の共有が容易であるという日本のメリットを強く意識してこなかった。だからその日本のメリットが今や失われようとしていることに気がついていない。

いや、人と人との直接の接触なしに情報を伝達、共有するドライな技術の進歩によってアメリカという国が国土の広さ、そして多人種社会というハンデを今、克服しつつあることに気がついていない。

これはまさしく、日本にとっての脅威である。このまま事の重大さを看過していると、日本が勝る唯一といっても良かった情報の共有という点で、アメリカに逆転されてしまう。

6.「デジタル技術」と「アナログ技術」の両立

国際化という言葉がある。日本はもっと国際化しなければならない、とこれまでずっと言われ続けている。私には国際化という言葉の意味がよく理解できていないのだが、国際化ということが国境を越えた人種の違いを越えたコミュニケーションを意味するならば、コミュニケーション技術が地理的距離をゼロにしつつある今、人の移動を伴った国際化が今後果たしてどんな意味を持つだろう。既に述べたように日本人がわざわざ海外に出かけて行って永住せねばならないようなドライビングフォースは日本にはない。

人の移動にともなった国際化は元々日本には無理だ。無理に決まっていることは、声高に叫んでみたって無駄だ。そのエネルギーをほかに向けた方がよい。そんなことは放っておいて、日本もテレコミュニケーション技術にもっと力を入れるべきなのになかなか進まない。

アメリカに追いつくどころかどんどん引き離されている。 何度も繰り返すが、もの作りはシーズとニーズの集中と触れ合いから始まる。シー ズとニーズは情報である。触れ合いはコミュニケーションそのものである。処理と伝達の技術では、例えばパソコンのソフトウェアのように既に圧倒的にアメリカがリードしてしまったものもある。まだ私は馴染んではいないが、おそらくインターネットなどの通信、検索用のソフトウェアでも、そうだろう。

こういう領域では、もう既に手遅れかもしれない。だが、少なくともそれをうまく使いこなすことでは、なんとか互角にまでは持ち込まなければならない。そうでないと、何もかもアメリカに全部負ける。

情報の集中と共有という観点で見た場合、アメリカが現時点でテレコミュニケーショ ン技術で日本を大きくリードしている。だが、そのほかの点では日本がアメリカに負ける要素は今のところ見当たらないと思いたい。単なる願望に過ぎない?

一つは既に述べたとおり、私は日本語という言葉の壁が、そして、それと一緒になって歪な特許制度が日本を守ってくれると思う。

7.情報は経営資源、情報の共有は創造力を生む

このメリットを日本は、日本の企業はもっともっと意識して活かすべきだと思う。 もう一つ日本がアメリカに優っている点は、企業に対する従業員の忠誠心の高さだ。従業員が信頼できなければ、情報の共有などというものは技術的にはできたとしても、危なくて実行できるものではない。

今は最新鋭のLSI工場のすべてのノウハウが薄いディスク1枚に記録できる時代である。これ1枚を持ち出せば、どこの国でも最新のLSIが生産できてしまう。情報処理、記憶技術が進歩すればするほど、情報のセキュリティが問題になる。この問題をどうするかは情報管理技術の問題だろう。だが最後にはこれは従業員の忠誠心とモラルの問題にいきつくものと思う。

情報の共有がいかに重要かはそれが阻害されたりできなくなってから初めて気がつく。これはどこかで述べたとおり空気のようなものである。

このことの大切さを十分評価せず、そして従業員の忠誠心とモラルとがいかに大切であるかを見過ごして、我も我もとリストラに走っている企業が多い。これは間違いなくじわじわと企業をだめにし、日本をだめにする。これは現実にアメリカの企業の中でドラスティックなリストラを何回か体験した私の実感である。

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8.「R&Dプロフエッショナル」久里谷さんが残した言葉

研究開発部門における「知的基盤」の構築を提唱したい!

日本企業は今後、効率的に誰もが利用できる形で情報を分類、整理、蓄積していく手法 を積極的に確立していかなくてはならない。情報を蓄積する入れ物は、今や幾らでもある。問題はそれを自社の事業に合わせてどういう形で、どういう風に分類して蓄積するかという方法と、実際にあふれている情報の分類、蓄積作業を誰がやるか、という ことである。

蓄積する方法の確立と蓄積作業は研究開発の実務経験者しかできないと考えている。幸いなことに?今は実務経験のある我々の年代の人間が余っているはずだ。彼らに、その能力を十分発揮してもらうことが理に叶っていると思う。そして、この作業のついでといったら語弊があるが、彼らには得意分野での技術動向の分析まで担当してもらい、その過程で生まれてくるはずのアイ デアを盛り込んだ報告書を作成してもらう。良いアイデアを持っていながらそれを実行できなかった、あるいは実行させてもらえなかった人は結構いるはずだ。

これまで、あまり新しいテーマ探しをしたことのない人も沢山いると思うから、今まで自分でも気がつかなかったアイデアが姿を隠して頭の中に詰まっている可能性がある。やってみると 実務経験があるだけに現実的で面白いアイデアが結構でるはずである。

ブレーンストーミングなんかよりはずっとよい。 こうして経験者(先人達)のアイデアを盛り込んで作成された分析レポートと、同時にできたデータベースを若い技術者に活用してもらう。

これらを活用するのに時間はそんなにかからないはずだ。盛り込んだアイデアは決して彼らに実行を強制するためのものではない。人は人のアイデアによって創造力を刺激されて、もっと洗練された自分独自の アイデアを出すものである。これは私が何度も経験したことだから確かである。

さて、日本人は物真似が上手だがクリエイティブでなく、オリジナリティーに欠け、アメリカ人はその逆だとよく言う。そして、もっと独創性のある人間を日本も育てなくてはいけない、そのためには教育制度を見直すべきだとの議論が、昔からある。教育制度の問題だけでなく、企業の組織(在り方)にも問題がある

価値観の相違によって定義は人さまざまだが、企業の中で30年間を研究開発の現場で過ごしてきた私にとって、人がクリエイティブであるということは、まだ誰も気がついていなくて(オリジナリティーがある)、しかもそれが達成されたら経済的に利益があり、そして自分のいる会社にとって達成する事が容易な製品コンセプトまたは技術コ ンセプトを自分で見つけ出すこと、あるいは創り出すことができるということ、と理解している。

あとがき

(故)久里谷さんが残したレポートは、やがて来る日本経済の危機を訴えており、研究開発技術者の立場から、その対策を提唱していました。しかし当時(成熟・衰退期)は、全く注目されることなく、それらのレポートは埋もれた状態になっていました。現在、日本経済は久里谷さんが危惧していたとおり日本は苦境にあります。そのような状況のなか、故人の書籍やレポートを整理し「知財の近代史から見える日本経済の衰退化」という切り口から纏めたのが、この原稿です。(発明くん 2022/08/17)

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