第4章:さて、どうなる?「名こそ惜しけれ日本の美」
アングロ・サクソン系エリート達が持つ特徴の一つに人間の多様性への理解が薄いことがあるようだ。それは恐らく、自分達の優位性を意識するあまり、物事を「1か0」、「YesかNo」、といった「2値」の概念を齎しているからであろう。
この「1か0」の概念は「ディジタルdigital」の世界であり、自然科学に基づく工業技術が現文明のもと、凄まじい発展をもたらしたのは当然のことである。一方、日本には自然物も含めて他者と共に生きる「心」と「名こそ惜しけれ」という美学がある。すべての日本人が「1か0」の世界に飲み込まれることなく、日本の心と美学を見失うことなく「資本経済」一辺倒から「倫理経済」さらに地方創成のカギとなる「共生経済」への可能性も探りたい。
Ⅰ、二つの社会、あるいは、二つの世界
西洋世界の特徴は、国内においては二つの社会で構成されており、世界をコントロールするシステムも、上流の西洋国と下流のその他世界に分けて動かされているところにある。つまり、持てる者と持たざる者、金持ちと貧乏人、貴族と平民、エリートと大衆、高学歴と低学歴、将校と兵士、経営幹部と労働者、先進国と後進国、欧米とアジア・アフリカ・中近東・ラテンアメリカ、というようにくっきりとした区分けのもとにこの500年運営されてきている。
このような区分けとは異なる日本の伝統社会の中で育ってきた者には、西洋社会のこの在り様に接すると、何かしっくり来ない違和感を感ぜざるをえない。現在の世界のきしみは、この二つの世界・社会にその根本原因があることも推測できるものでもある。
この二つの世界・社会が出てきている根っこには多分、自己を中心に置いて対象物を客観的に眺める思考方式があるのだろう。そのような観察方法と分析方法によれば、自国の社会を眺めて考える場合も、世界を眺めて考える場合も、全体の把握は極めてシンプルなものとなりうるだろう。したがって、どのようにその対象物を経営していくかも極めてシンプル(単純)な方式に収めることができるようになる。
この「単純」であることが、西洋世界が全世界を主導してくることができた、もしかしたら、一番の要因なのではないか。もちろん西洋世界といっても、ラテン系とゲルマン系社会では、二つの区分けの徹底に強弱があり、あまり徹底できなかったラテン系大国の、ポルトガル、スペイン、イタリア、フランスが主導権をアングロ・アメリカに譲ることになったのも、なんとなく分るような気がする。
世界、国、社会、団体を経営するうえで、その方式が単純であればあるほどうまく行くと考えれば、文化や民族性や人間性などなど「1か0」では計れない曖昧なるものに思い煩うことなく進めるのが、一番成功するやり方ということになるのだろう。
この方式が極限まで単純化されたものが、現在の米国の諸政策に現れており、それが世界中の軋みを招いていることは多くの人が感じているところである。もちろんそれ以前においても、世界と社会の経営がうまくいったことで利益を享受できたのは国の中では上部集団であり、世界の中では先進諸国と自称している国々だけである。そうではない下部集団と、世界の中のその他多勢国にとってはたまったものではないことになる。
二つの世界、二つの社会の方式は、かつての植民地経営においても採用され、そこでも植民地経営に協力する現地の少数上部と組み、その他大衆という図式は守られてきた。植民地解放後に於いても、この少数(ひとにぎり)の上部層と大多数の下層部という形は継続されてきている。
日本は、西洋世界に属さないのに、この少数上部国にまんまと属して来た。しかも、その社会の基本的なあり方は、西洋流の二つの社会ではないという、異色の存在として、この100年ほどを過ごしてきている。
「目には目を」「力には力で」という報復の文化が、終わりなき紛争を起こしている今日の世界において「日本」という国に生まれたことの意味、使命を考えてみたい。