第4章に関する「補足資料」
モノつくりの基本は「なぜ」を問う力(1)
言語表現の裏側にはモノづくりがあり、この二つは切り離せない。モノづくりを行っていると、そこではいつも何がしかの「問題」が生じる。問題の生じない完璧なモノづくりなんて言うのはありえない。そこで大事なのは、問題が生じたときに、いち早くその問題解決に取り組むことである。そんなことは、頭では誰でも理解している。しかし、「なぜ」を問う力が弱いと、この生じた問題への反応が遅くなる。ひどい場合は、問題であることさえ気がつかない。また気がついても、その問題の抱える重要度を量る判断力がない。
そのために何が起こるかといえば、問題解決へ向う行動が遅れることになる。「なぜ」を問う力が弱い人が多ければ、一つの問題が報告されても、直ちにアクションが取られることなく、”どうしましょう”なんてことになる。お互いに顔を見合わせながら「会議」しているうちに、問題の火は広がっていくことになる。ボヤの内に火を消す努力を怠り、火の手が広がってから消防ポンプ何十台をかき集めても、もはや手遅れとなる。
いまの状況が、よ~く理解できる『書籍の紹介』
書籍名:格差大国アメリカを追う、日本のゆくえ
著者:中原 圭介 2015年4月30日 第1刷発行
発行所:朝日新聞出版
第1章:中間層が没落するアメリカ、
第2章:格差は何故拡大したのか
第3章:経済学は何のためにあるのか
第4章中間層と国家の盛衰、
第5章:21世紀のインフレ政策は間違っている、
第6章:世界の模範となる日本
「モノつくり」の基本は「なぜ」を問う能力(2)
「なぜ」という疑問は幼児の時より芽生えて来るので、親がその問いにどれだけまともに対応するかで、その子の「なぜ」を問う力の発展にも大きく左右される。さらに、小学校から高等学校までの学校教育が、この「なぜ」を問う力の発展にも大きな影響を与えている。
日本の学校教育は、この大事な「なぜ」を問い、自分で答えを見つける力を育てるのではなく、なぜ、という疑問を押し殺して、何でもかんでも言われたとおり、指示されたとおり、教科書に書いてあるとおりに事柄を覚えこむことに重点が置かれてきたのではなかろうか。つまり、生徒・学生のレベルを、どれだけ頭の中にデータと情報を詰め込んだかで評価する仕組みになっていると思う。
その結果、学校での成績の良かった者は、それに反比例するが如く、この「なぜ」を問う力、つまり「コト、モノの本質」考える力が弱いということになる(失礼)。もちろん、そもそも「地頭」が優秀であり、学校の試験などたいして努力することもなく合格してきた一部の例外はあるが、必死に努力して良いお成績を重ねてきた人に、上で述べた事実が当てはまらないことを願う。一方で、「なぜ」を問う力が強い生徒・学生は、この押し付け丸暗記型、詰込み型の教育に反発するから、結果として、大方は試験の成績が芳しくないまま卒業していくことになる。
しかし、これからの時代は、これまでのように答えが用意されているわけではない。答えは、自分の頭で考え考え抜いて、自分なりの答え見つけだすことが強いられるようになってきた。
いまの時代、課題を見つけ、その課題を解決する、この「なぜ、どうする」の思考プロセスを持つ人材が強く求められていると思う。それを持たない人は、いくら学校の成績が優秀であっても、これからの時代が求めるに合わない人材となる。
むしろ挫折をしてきた人間の方が様々な経験をしているぶん多様性があり、人を思いやる心があるので、人のつながりを大事にしながら夢が追える「モノつくり」の仕事は向いていると思う。そう言えば、1994年にダイヤモンド社さんから出版して頂いた、―小さな会社が生きる法―身のほど経営のすすめに同じようなことを言っていた。
小さな会社が元気に生きる法
「身のほど」経営のすすめ
1994年11月10日 初版発行 発行所/ダイヤモンド社
『日々を働き惜しみしないで過ごすと確実に内面が変わってくる。そのうち立場も変われば、責任の度合いも変わってくる。自分が何かのお役に立っている、誰かが必要としてくれていると分かれば仕事は、お金のためばかりでないということも自然とわかってくる。最終的にはその人の人格までが変わってくる。品性まで備わってくる。実は仕事には我々をそういったところまで引っ張ってくれる可能性があるのに、むざむざと、その可能性を捨てている人がいる。實に勿体ないなあ、とおもう。うちの社員は、決していい学校は出ていない。大学を中退したもの、大学から入学を拒否されたもの、高校から是非やめて欲しいと頼まれたもの、などなど教育ママゴンが目をむくような連中である。でも実際の世の中では、学歴以上に大事なことがたくさんある、
世の中で必要なものは数学とか、英語との知識ではなくて(無いよりはあったほうがよいいいが、それがないと始まらないというものではない)、人の気持ちが理解できるとか、誠意があるとか、正直だとかといった、人と人の関係に関わる単純なことが大事なのである。つまり、心が疲れていないこと、それが基本である。勉強のおくれは、社会に出てからすぐに取り戻せることができる。しかし社会に出てからの遅れは取り戻せない。
うちの連中は、どこかで挫折を経験している割には、心が疲れていないし、人の心の機微も結構わかる。もっとすごいのはお客に喜ばれると、一段と燃えることである。今まで自分の親にも期待されなかっただけに相手の反応が嬉しかったのだろう。いまや憧れのエリートたちが自分を頼ってくれたり、説得して商品を買ってもらったりすることで、働き甲斐をみいだしているようある。世の中の有名企業が自分達を必要としてくれていると感じられればいいのである、小さな会社であろうが、決して卑屈になることなく対等にやっていけるという自信が、連中のやる気を支えていると思う』。原文引用
余計なことだが一言、「黎明・成長期」における必要な人材は体力と根性のある人だった。「安定・成熟期」における必要な人材は、「ゴマスリ」と「忖度」と「こと無かれ主義」に徹する人であった。「衰退・変革期」における必要な人材は、自分で考え、自ら行動できる人材である。社員の値打ちも時代と共に変わる。「将来の大器」も、いまでは「自宅待機」に変わっている。