1. 1972年、特許業界に足を踏み入れる

  発明くんの人生は、甚だ行き当たりバッタリである。日本アイアールという会社も、実は発明くんの気まぐれから出来たようなものである。リコーには「人を愛し、仕事を愛し、国を愛す」という三愛精神がある。しかし発明くんは己しか愛せなかった「ハミダシ者」であったようだ。

  発明くん自らの希望で、1972 年リコー「情報機材部」へ配属となった。転属の理由は、身勝手な行動で周りの人に迷惑をかけたからだ。「情報機材部」を選んだ理由は、部署名がなんとなくカッコ良かったこと、会社からの期待は大きくなく、なんとなく勝手に仕事がやれそうだという、お粗末な動機であった。

  「情報機材部」がやっていたことを説明しよう。物を作っている会社は、たくさんの設計図面を作る。大変な量である。紙図面のままではスペースを取るばかりでなく、出し入れの管理が困難となる。そこで紙図面をマイクロフィルムに撮影して保管するニーズに応えて出来た部署である。

  原稿からマイクロフィルムへの撮影は、子会社のリコーマイクロ写真工業(株)が受け持った。撮影したマイクロフィルムを検索し、コピーが取れる「マイクロフイルムリーダ」の営業が「情報機材部」の主な仕事であった。

  「情報機材部」は、マイクロフィルムの撮業請負だけでなくマイクロ出版事業へ進出した。“設計図面だけがマイクロフィルム化の対象ではない!「特許公報」という宝物があるではないか”と誰かが目をつけたのであろう。

  「日本は特許大国と言われるだけあって出願件数が、やたらと多い。出願された発明技術は、紙へ印刷され「特許公報(公開・公告)」として合本形式で発行される。その量は膨大で、保管し続ける為の場所が確保できないという問題を抱えていた。

  この特許公報をマイクロフィルム化して出版する事業である。ただ。特許庁が発行する特許公報を、そのままマイクロ化(番号順)するには能がない。「情報機材部」が出す特許公報のマイクロ出版は、特許公報をそのまま(発行順)撮影したものでは無い。

  特許庁審査官が付与する日本特許技術分類(JPC)を、分類順(1~136 類)に編集して撮影をした商品である。この商品は、自社が必要とする技術分野だけ購入すれば良いというメリットがあった。勿論、マイクロフィルムヘ撮影された特許公報の「所在(番地)」を知る「分類索引」が必要となる。「分類索引」だけでなく「出願人別索引」も必要である。しかも特許公報には主分類と幾つかの副分類が付与されていたので手作業での編集は不可能である。そこで電子計算機(*)が利用された。日本で初めて特許情報の書誌事項が電子計算機へ蓄積された。
(*)この時代、コンピュータのことを電子計算機といっていた気がする。

その後、日本分類(JPC)だけでなく、リコ-独自の技術分類(*)を付与して、公開特許を対象に TPI 抄録サービスを開始するなど特許情報の普及サービスに努めた。

(*)TPI 抄録:化学分野の特許情報に絞り要約、書誌事項、請求項、図面等を一件一葉に纏め、更に独自の分類(TPI)を付与していた。発行は月一回。(財)野口研究所の化学技術者によって作成された、

◆マイクロフィルムの歴史:ウイキペティア (フリー百科事典)から引用

歴史[編集]


「資料を写真で撮影してサイズをコンパクトにして保存、閲覧する」という考え方は写真の発明当初より存在しており、1839 年に資料の 160:1 の比率の写真を撮影したダゲレオタイプ技師の John Benjamin Dancer がマイクロフィルムの発明家とされる。その後、イーストマンコダック社が 1928 年よりマイクロフィルム部門を立ち上げ、アメリカ議会図書館大英図書館で採用されるようになった 1930 年代頃から一般化した。イーストマンコダックは 1935 年よりニューヨーク・タイムズの縮刷版を発行している。日本では富士フイルムが 1958 年よりマイクロフィルムを製造している。

発明くんイラスト