残しておきたい「補足資料」
第1章に関連する「補足資料」
1,28年前(1996年)に中国の精華大学に訪問した時の衝撃
28年前1996年中国精華大学に訪問した時、図書館へ案内されたときのことを思いでしながら、この「あとがき」を書いている。案内してくれた教授の話によれば、当校は日本の物つくり技術の習得だけでなく、欧米のコンピューター技術に付随してくる通信技術関連の教育に力を入れている。従って学生達が使う教材は原書、即ち英語であるとのこと。図書館には英文で書かれた参考書しか置いていない。
“物つくり技術は、実習体験の積み重ねが大切ですね。コンピューター関連技術は手に取って学ぶことは難しく教科書(専門書)で原理原則の基礎を学ぶしかないです。だから学生達は、このように必死になって図書館通いをしているのです。日本の大学では日本語に訳した教材があるそうですが、本当ですか”と尋ねられたことがある。
余談だが、台湾も中国と同じだと聞いている。
2、日本が「I o T技術」の競争に遅れた理由は、
「黎明・成長期」における成功体験に固執し、グローバル世界の本質を理解していなかったからだと思う。日本製品を輸出する、海外(発展途上国)で日本製品を作らせることがグローバル化と思い込んでいたのではなかろうか。グローバル化の本質は、世界がネットで繋がったこと、巨大なデータがビジネスになること、異文化を受け入れること、意欲と才があれば誰もが起業できること等、異文化との交流が活発になることである。これ等を受け入れるには、何が必要か。企業がグローバル化で生き残るには先ず「国際共通語である「英語」で、情報を取集、分析し、対策を練り、論理的に伝える能力、つまり「インテリジエンス能力」を高める必要があった。
3、1985年は、米国にとって大きな転換期であった。
1985年に象徴的な二つのレポートが提出されている。一つは、議会委員会の議長を務めたHP社のCEOの名を取って「ヤングレポート」と称される、レーガン大統領への答申書である。これに基づいて米国は「プロパテント政策」へ転換したと言われている。もう一つは、マサチューセッツ工科大学が世に問うた「メイドインアメリカ」という分厚い報告書である。
この二つの報告が分析された当時の米国の状況は、「物づくり」の競争に敗れたということであり、その分析から導き出された提案は、ヤングレポートにおいては、知識と技術の重視と、それに基づいて、ひとつは知的財産権の強化であった。
一方、マサチューセッツ工科大学のそれは、製造業の大幅な改善であった。マサチューセッツ工科大学の報告が、その後どのように扱われたか、私は知らないが、その後の米国の動向を見る限り、この提案は「国策」として採用されなかった。つまり「物づくり」で、もう一度、世界のトップの座を奪い返そうと言う方針は、米国において永久に葬りさられたことになる。
1985年での時点で、あるいは1990年の時点で、米国の強い処と弱い処を考察すれば「物づくり(ハード製品)に負けたあと、残された強い分野は、コンピュータ・ソフトウエア、バイオ、そして「情報システム」を基盤にした各種の社会運営システム、ビジネス方法のシステム化にあることは、それほど深く考えなくても分かることであった。
4,米国は自国の強い分野に知的財産権与える政策を進めた
米国の強い技術分野に特許を与えて、将来のロイヤルテイ収入を期待しょうとすることから当然のことながらコンピュータ・ソフトウエア特許が与えられるようにした。国や企業を動かす仕組み(システム)は、IT技術(Infomation Technology情報技術)抜きでは考えられない。
そのソフトウエアは、圧倒的に米国が強い。バイオ分野での特許範囲も大幅に広げることにした。これも米国の世界制覇の一環であるが、深く立ち入ることは控える。更にシステムに強いことを生かして、ビジネスのやり方まで特許を与えることにした。ローヤルテイが稼げる特許をたくさん持つという戦略からして極めて素直な動きであったことがわかる。