2.世界の人々へ、誤解なく伝えるには「論理力」が求められる

確かに日本語は「情感」の表現には向いているが「論理的表現」には向いていない。しかし、問題がここにあり、それを解決するためには、このようにしなければならない、そのためにはこのような努力が必要である、等々を説得し、理解を求めるためには、論理的に筋道を立てなければならない。

論理的思考の起点は、事実の把握を出発点とする。いま生じていることは過去に生じた何らかの結果である。過去を知らずして状況把握は行えない。当然、分析も行えない。分析ができなければ問題点も出てこない。問題点が見つけられなければ、対策も考えられない。あるいは考える必要はない。

つまり「論理力」は、事実を矛盾なく明確に伝えることが目的である。文才は必要ない。要するに日本文化に根ざした叙情的で美しい、あるいは阿吽の呼吸を期待した以心伝心の「文化日本語」でなく、世界へ「物、事、考え」を伝える為の「やさしい平明な日本語」、即ち第二母語としてのもう一つの言語、つまり「文明日本語」を持てば済むことである。

[余計な能書き]:新しい「モノづくり」の時代,“なぜ”を追求し、そして“どうする”を模索する“問答力”が、益々重要となってくる。企業であれば現場だけでなく経営陣も自社商品がどのような技術で構成されているのかを知っておくことは当然の義務である。この、「なぜ、どうする」の力が弱いと全てが後手、後手に回ることになる。

長きに渡る日本の教育政策のおかげか、この「なぜ・どうする」を問い、思考(模索)する能力は、日本人の中で見事なほどに低下している気がする。例えば日本の超エリート集団であるべき政府及び霞が関の施策、何かあった時の対応を見れば、問題の本質をおざなりにして甚だ場当たり的で、曖昧である。これでは世界のエリート連中とは戦えない。

もちろん日本でエリートと呼ばれている人達は、頭脳明晰で語学力もある。しかし自分の考えを相手に認めさせる議論は苦手としている。“そこまで言わなくても理解して欲しい”という阿吽の呼吸は通じない。議論に負けない論理力を持たないと世界のエリート達から認められない。彼らから認められたら“名こそ惜しけれ日本の美”の精神を失わず対峙して行くことで更なる新しい信頼関係が生まれるはずだ。